これから紹介するロマネスク建築は、正直に言うとゴシック建築ほど派手ではない。
「なんか石でできたゴツくて暗い教会だなぁ」
無知だった頃の私は、本当にその程度の感想しか持っていなかった。
しかし、建築史を学んだ今なら断言できる。
ロマネスク建築を理解せずにヨーロッパを旅するのは、ルールを知らずにサッカー観戦をするようなものである。
面白くないわけではない。だが、本当の面白さには気付けない。
ちなみにわたしは「オフサイド」や「フォワード」「ミッドフィルダー」などの意味を全く知らないのでサッカーには全く興味が持てない。なのでワールドカップも一切観たことが無いし日本の勝敗にも全く興味がない。
ローマ帝国の崩壊後、ヨーロッパの人々が試行錯誤の末に生み出したロマネスク建築は、後のゴシック建築へとつながる重要な第一歩であった。
今回は、ヨーロッパ旅行がもっと楽しくなるよう、ロマネスク建築の基本をわかりやすく解説していく。
ゲルマン人とキリスト教

ロマネスク建築を理解するうえで、避けて通れないのがゲルマン人とキリスト教の関係である。
「建築の話なのに歴史?」と思うかもしれないが、実は建築はその時代を生きた人々の価値観や社会を映す鏡である。
ロマネスク建築がなぜ誕生したのかを知るために、まずは中世ヨーロッパの主役となったゲルマン人とキリスト教の歩みから見ていこう。
ローマ建築衰退以降、ロマネスク建築成立までは長い時間(およそ600年)もかかっている。
その間の歴史的な出来事の1つがゲルマン人大移動である。

下に大まかな流れを記したので、先にざっと目を通して頂きたい。
- ローマ帝国の東部にゲルマン人という民族が住んでいた。
- フン族という民族に攻められて西(ローマ帝国方面)に逃げた。
- フン族の追撃が激しく、大量のゲルマン人がローマ帝国内に逃げ込んだ。
- 異民族の侵入によりローマ帝国大パニック
- 結局ローマ帝国は東西に分かれ、特にゲルマン人が多く侵入した西ローマ帝国はすぐ滅亡
- 滅亡した西ローマ帝国跡地でゲルマン人たちが色んな国家を建て始めた。
【超重要】ゲルマン人と一口に言っても、○○人とか△△人などバラバラで、1つの特定の民族を指すわけではない。
イメージ的には、
を全て「アジア人」と一括りにしている感じである。
ゲルマン人は(本書曰く)文字をもたず、都市を知らず、自然を崇拝し、厳しい自然環境のなかで素朴な生活を営んでいた民族とのこと。
ゲルマン人大移動
まず、下に示したのは紀元前2世紀頃の地図で、ローマ帝国は現在のヨーロッパや北アフリカを支配していた超強大広大な帝国だった。

ゲルマン人とは、もともとはバルト海の沿岸部にいくつかの部族に分かれて住んでいた民族のこと。
彼らは紀元前1世紀以降、人口増加や農地の不足から、北ヨーロッパのケルト民族を圧迫しながらドナウ川やライン川の北側(つまりローマ帝国の方面)まで進出していった。

ゲルマン人とローマ帝国
その結果、ゲルマン人がローマ帝国と接触するようになっていった。

ゲルマン人の中には、奴隷や傭兵、コロヌス(小作人)としてローマ帝国内に移住する者も出ていた。
しかしゲルマン人はローマ帝国内の人々とは文化も宗教も全く違う異民族なので、基本的にローマ帝国とは干渉せずお互いに穏やかな日々を過ごしていた。
地図上ではゲルマン民族の勢力図を1つの塊としているが、ゲルマン民族は様々な部族の寄せ集めのため、まとまった集団ではない。
フン族の出現
しかし!!
4世紀にゲルマン民族の一部族で黒海沿岸に住んでいた東ゴート族が、アジア系の遊牧民族であるフン族に征服されるという事件が起きた。

フン族に関してはあまり深く分かっていないが、中国にしばしば侵入した匈奴(きょうど)と同じ系列の民族と考えられている。
フン族(≒匈奴?)は非常に猛々しい民族で(つまりめっちゃ強い‼)、当時の中国では非常に恐れられていた。
中国の世界遺産『万里の長城』はその匈奴の侵入を防ぐために建てられた。
本当かどうかは知らないが、一説では三国志最強の武将『呂布』も中国北方(ロシア)から流れてきた匈奴系の民族で、「呂布」は「ロフ」とも読め、ロシア人にありがちな「〜ロフ」という名前から取られているという噂を耳にしたことがある。
ゲルマン民族大移動の始まり

フン族はさらに押し進んで西ゴート族を圧迫し、フン族に追われた西ゴート族は375年、ついにドナウ川を越えてローマ帝国内に流入した。

これがゲルマン民族大移動のきっかけとなった。
まさに蟻の一穴である。
一度ローマ帝国内に逃げ込んだ西ゴート族(ゲルマン人)はもう遠慮なく次から次へとローマ帝国内に逃げ込み始めた。
おぉーっと、西ゴート族の流入が止まる気配がなーーーーい!!!!!!
と古舘伊知郎なら実況しているだろう、フン族恐ろしい。
ローマ帝国分裂
ローマ帝国の分裂は395年なので、ゲルマン人(民族)大移動が始まっておよそ20年後のことである。
フン族から追われたゲルマン人が大量にローマ帝国内に流入したことにより、ローマ帝国は混乱し統一的に国を治めることができず、東西に分裂した。
なんせ宗教も文化も全く違う異民族が大量に入ってきたのである、そら大混乱になるのも頷ける。
分裂後の大体のイメージがこちら。

しかし実はゲルマン人大移動はこれから約200年間も続き、ローマ帝国分裂は大移動開始から20年後と、割と大移動の序盤で東西に分裂したのだった。
西ローマ帝国内にゲルマン人国家が乱立

西ゴート族はその後2回にわたってローマ市内で大規模な略奪を行うなどしたため、ローマ皇帝は帝国内に西ゴート王国をつくることを認めざるを得なくなった。
ローマ皇帝「もうお前ら自分の国作ってええから、帝国内では悪さすな!」
これも蟻の一穴であった。

もはやホラーである。
これに続いて、
などのゲルマン諸民族も大移動を開始し、(西ローマ帝国内の)定住した場所にそれぞれの国を建て始めた。

つまり言葉も文化も違う大量のゲンルマン人が「統一されていた帝国」に逃げ込んだのである。
ゲルマン人大移動はおよそ200年間続き、西ローマ帝国を混乱に陥れた後に滅亡に導いた。
前記事で既に述べたが、ゲルマン人大移動の影響が少なかった東ローマ帝国はその後1,000年以上存続することになる。
西ローマ帝国滅亡

こうして、弱体化した西ローマ帝国は、ゲルマン出身の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた。
もちろん各ゲルマン国家同士の争いも多く、お隣の東ローマ帝国との争いも多いのだが、それはまた別のお話(←というか筆者が知らないだけ)
ゲルマン人大移動の影響が少なかった東ローマ帝国は、分裂から1,000年以上繁栄し、そこで発展したのがビザンティン建築である。
とりあえずここまでの流れはOKだろうか?
ゲルマン人大移動については、別の記事でも説明しているので参考にして欲しい。
キリスト教の普及
ゲルマン人大移動の前の話になるが、西暦400年頃のローマ帝国の時代にキリスト教はローマ帝国の国教となり、爆発的に帝国内外に広まっていった。
その状態で、
「ゲルマン人大移動」
→「ローマ帝国の東西分裂」
→「西ローマ帝国滅亡」
→「ゲルマン人達が国家を乱立」(ここまでは既述)
も同時に起きていた。
もともとゲルマン人は、帝国民と同じキリスト教でもローマ帝国で認められていたのとは違う宗派(アリウス派)を信仰しており、アタナシウス派を信仰する国家領内の民たちとのわだかまりが大きく新たな国家が興亡を繰り返していた。
無宗派のわたしには想像すらできないが、同じキリスト教徒でも、宗派が違うだけで共存することさえ難しいらしい。
その中で唯一、領民と同じアタナシウス派に改宗したフランク王国が、その後西ヨーロッパを統一(=カール大帝)し、再びキリスト教が西ヨーロッパで落ち着きを取り戻した。
現在のヨーロッパの地図の基となったフランク王国はこちらで解説している。
ではここで質問だ。
キリスト教が爆発的に普及するのに伴って建てられる建築物はなに?
そう、教会堂である。
教会堂とは、「教会」をカッコよく表現しただけ。
4世紀にローマ帝国でキリスト教が公認されると、信者のための教会堂が各地に一斉に建てられ始めた。
つまり、中世以降の建築物は全て教会堂としての機能に焦点を当てている。

ローマ帝国衰退期~ロマネスク建築完成までの期間は、木造天井と屋根をもったバシリカ式(これを初期キリスト教建築と呼ぶ)だったが、

ロマネスク建築家たちは石造り天井をもった耐久性のある教会堂建設を目指した。
中世建築はロマネスク建築から始まったのでだいぶしっかりめに説明させて頂いた。
初期キリスト教建築についてまだ読んでいない方はこちらから。
古典建築の衰退と中世建築の開花
ということで、ここまでの内容をザっとおさらいしよう。
- ローマ帝国でローマ建築が発展した。
- キリスト教が国教となり、教会が重要になった。
- ゲルマン人大移動が起きてローマ帝国が分裂した。
- 西ローマ帝国跡地でゲルマン人が国家を乱立した。
- ゲルマン人は各地に残るローマ建築を教会として利用しようとした。
さて、ここからが本題である。
ゲルマン人は初め、ローマ帝国の跡地に残っているローマ建築を利用して更なる発展を目指した。
しかし、文明と触れてこなかったゲルマン人たちにとって、完成されたローマ建築をそのまま受け継ぐことは不可能だった。
冒頭でも書いたが、なぜならゲルマン人は(本書曰く)
- 文字をもたず
- 都市を知らず
- 自然を崇拝し
- 厳しい自然環境のなかで素朴な生活を営んでいた
民族だからである。
お、ローマ人が創ったローマ建築そのまんま使えるやん!
ラッキー棚ぼた棚ぼた~♪
5分後。
え、ちょ待って…。
あいつらの技術高過ぎるねんけど。
神業ワロタww
みたいな状態なのである。
結局、ローマ建築を参考にしながらも(逆に言えば参考にするのが精一杯だった)、自分たちのオリジナルの建築様式を創造するまでに600年の歳月がかかることになる。

なので6世紀以降、建設技術はどんどん低下の一途をたどっていった。
古典的教養のある建築家や技術に優れた職人はしだいに姿を消し、ローマ時代の石切場は生産を停止した。
建設工事で最も労力を要する「石材の運搬」も、なるべく地元に産する比較的小さな石材を使う事で解決した。
つまり、
小規模な建物しか造れない!!
という事である。
ギリシャ建築のような、大きな一本石から正確に切り出す必要のある古典的な円柱は望んでも得られない高嶺の花になってしまった。

そんな中、西ヨーロッパの大部分を統一したフランク王国のカール大帝の時代に完成した建築様式がロマネスク建築なのである。
長々と説明してきたが、つまりロマネスク建築とは
ローマ人が用いたローマ建築の技術を参考にしながらも、完全に真似することは不可能だったので、自分たちで新しい建築様式を創造するしかなかった
ということになる。
教会堂の2つの形式

この時代の人々は、キリスト教の普及とともに大聖堂や教会堂や修道院の建設に最も力を注いだ。

信者を統一してまとめるために教会堂などが必要だった。
キリスト教では「洗礼」や「結婚」などの儀式をミサと呼び教会堂で行うが、その教会堂の中心となる卓を「祭壇」(さいだん)と呼び、祭壇が教会堂の核となる最も重要な部分となった。
そんな教会堂だが、実はその形状から主に
- 円形/正方形/正多角形にドームが付いた集中式
- 長方形や十字形のバシリカ式
の2つに分けられる。
初期キリスト教建築編がこの章の予習の内容になっているので、まだの方は先にそちらを読んで頂きたい。
集中式

基本的に「集中式」は宇宙と人間の完全性を具現化したもので、礼拝堂などではよく用いられたが、参列した大勢の信者と聖職者が祭壇を挟んで対面するミサの形態に適さなかったので教会堂の形式としては少数であった。

バシリカ式の方も勉強すればより理解が深まるので、とりあえず読み進めて欲しい。
集中式の特徴は、平面では円、正方形、正多角形が基本となり、中央部の屋根にはドームが採用されていることだ。


こちらはエルサレムにある岩のドームで、イスラム教の聖地だが、やはり集中式となっている。
しかし主にヨーロッパのキリスト教世界では次に紹介するバシリカ式が主流だった。
バシリカ式
これから説明する用語はどれも非常に重要なので、漠然とでもいいので頭の片隅に保存しといて欲しい。

バシリカ式とは、ヨーロッパの教会堂に多く用いられる形式で東西に長い長方形の平面をもち、西側の端部に教会堂への入り口(扉口)をもつ教会堂である。
中世に建てられた教会は基本的に東西に長く、西側に玄関口があり、東側に祭壇がある。
バシリカ式の多くは上から見ると「十字架形」をしている。

上の写真からだけでも東西南北がわかる。
キリスト教世界の中世ヨーロッパでは、祭壇に向かう長軸方向の動きを重視するミサの現実的要求に沿わない集中式の礼拝堂は流行りませんでした。
意味わかるだろうか?
つまり教会側としては、玄関から入ってきた信者をなるべく奥の祭壇まで長く歩かせたいのである。
なぜならその方が厳かでありがたい感じがするから。
集中式だと、玄関入ってすぐに祭壇があるのでまだまだ現実的な感じがする。
この西側の正面(玄関)を特に西正面と呼ぶ。
以降、こちらの図に沿って説明していこう。
(何度も何度も見て欲しい)

西側に玄関口があるのがわかるだろう。
【解説】身廊と側廊
バシリカ式教会堂の内部には、幅の広い中央の部分「身廊(しんろう)」とその両側にある幅の狭い部分「側廊(そくろう)」からなり、身廊と側廊は列柱で分けられている。

身廊に面したアーケードを大アーケードと呼ぶ。
【解説】クリヤストリーとアプス
身廊は側廊よりも天井が高く、列柱の上方には壁(身廊壁)が立ち上がっている。

この壁の上部にアーチ形の窓クリヤストリー(高窓)をあけて、身廊への採光を確保している。


身廊の東端部は通常、半円形の窪み(アプス)となって終わる。

初期はアプスに聖職者席を配置し、その前面に主祭壇を置いていたが、のちに聖職者席と主祭壇の位置が入れ替わった。

確かに主祭壇の奥に聖職者席があると「聖職者は神よりエライ」ともとれる、これは問題である。

アプスと主祭壇を含む東側の部分は聖職者の専用空間「内陣(ないじん)」であり、一般信徒に解放される部分「外陣(げじん)」と分けられる。
【解説】袖廊と周歩廊

内陣(ないじん)と外陣(げじん)の間に、身廊に直交して短い廊がとられることがり、この廊をトランセプト(袖廊(そでろう))と呼び外陣に含まれることが多い。
また、ロマネスク建築以降では巡礼者が聖堂内陣の周辺を一周できるような回廊(周歩廊(しゅうほろう))が設けられている聖堂もある。
【補足】アプスの東西の変化
なお、(ローマ帝国での)キリスト教公認直後の教会堂では礼拝形式が定まっておらず、ローマの旧サン・ピエトロ大聖堂のように西側にアプスを、東側に入り口をとる教会堂も存在したが、6世紀には東側にアプスをとる配置が定式になった。
この他にも、側廊をもたない単廊式教会堂や側廊と身廊の天井の高さがほぼ同じホール式教会堂なども存在する。
ここでは言及していないが、縦軸と横軸の長さが等しい+形の「ギリシア十字」はビザンツ建築(東ヨーロッパ)で用いられた。

ギリシア十字形の教会とはこんな感じである。
我々がよく知る十字架の形は「ラテン十字」と呼ばれる。

古典系建築との大きな違い

ゲルマン人はローマ建築に憧れた。
しかし、憧れだけでは同じ建物は造れない。
「これ、真似したい!」
「……で、どうやるん?」
この壁に何度もぶつかった結果、古典建築とはまったく異なる特徴が次々と生まれていく。
今回は、その代表的な違いを三つ紹介しよう。
内部空間が重要

教会堂は「囲われた内部空間にこそ重要な機能と意味がある」ので、当然表現の主眼は内部にある。
外部はあくまで内部の空間表現の結果として造形されるに過ぎなかった。
この点も「外から見ていかに美しいかを究めたギリシャ建築」とは大きく異なる。
ただし「聖なる場所」への進路を示す扉口(とびらくち=正面玄関)は中世建築でも重要視されたので、独立した外部表現として慎重には作られた。
先ほどから何度も紹介しているあの図をもう一度思い出して欲しい。

内部空間で特に重要なのは、ミサの際に信徒が参列する身廊(しんろう)である。
これには異論は認めない。
特に身廊の空間限界である身廊壁(しんろうへき)がその空間の特質を決定するので、身廊はきわめて重要視された部分だった。

つまり中世建築では
が最重要視されたってことである。
オーダーの崩壊
久しぶりに「オーダー」という言葉を聞いて、「ん? オーダー?」と思った方も多いだろう。
オーダーとは、ギリシャやローマなどの古典建築を代表する特徴の一つであり、簡単に言えば「柱-梁構造」のことである。
オーダーの大原則では、円柱が支えるべきものはエンタブラチュアであり、円柱がエンタブラチュアの代わりにアーチを支えるということは本来あり得ない。

エンタブラチュアとは、柱の上に架けられた梁のことで、「アーキトレーヴ」「フリーズ」「コーニス」の三層から構成される。
覚えて……いるだろうか?
「サッパリわからないよ( ˘ω˘ )」
という方は、ギリシャ建築編を復習してから戻ってきて頂きたい。
オーダーを再解説
……とは言いつつ、そのまま進めるのは不親切なので特別にもう一度説明する。
①エンタブラチュアとは、円柱の上に架けられた横梁のことである。

②円柱の上部には柱頭があり、その柱頭の上にエンタブラチュアが載る。
③エンタブラチュアは、下から「アーキトレーヴ」「フリーズ」「コーニス」の三層で構成される。

④ 「円柱にはエンタブラチュアを載せる」──これがギリシャ人の究めた建築美であった。

しかし、ローマ帝国の滅亡後、このオーダーという概念は徐々に失われていく。
こちらをご覧頂きたい。

一瞬、コリント式オーダーが見えてローマ建築かと勘違いしてしまうが、明らかに中世建築である。
なぜなら、円柱の上にエンタブラチュアが存在せず、その代わりにアーチが載っているからである。

このように中世建築では、オーダーの大原則が崩れ、列柱はアーチを支えるのが一般的になっていった。
エンタブラチュアからアーチに代わった理由
エンタブラチュアは、柱と柱の間に巨大な一本石(モノリス)を架け渡して造られる。


このような巨大な石材を切り出し、運搬し、精密に加工するには、高度な技術と莫大な労力が必要であった。
当時のゲルマン人には、それは不可能だったのである。
先ほども説明したが、
要するに文明に触れてこなかったゲルマン人が棚ぼた的にローマ帝国跡地に残っていたローマ建築を真似しようとしたけど、ローマ建築の技術がスゴ過ぎて全く真似できなかった
ということである。
ロマネスク建築家「オレたちの技術では、もはや円柱もエンタブラチュアも新しく造れない……悔しいが、どう考えても無理」
という状況だったわけだ。

しかし円柱は加工されたものが帝国領内のあちこちにあり(まあギリシャ建築でもローマ建築でも使われていたので)、都市の衰退によって打ちすてられた建物から取り外して(太さの多少の不ぞろいを無視すれば)複数の建物から運んできたものでも長さを切り整えるなりして高さをそろえるだけで容易に流用できたのである。

一方エンタブラチュアは身廊の全長に渡ってデザインが統一されていないと見栄えが悪いので、流用は円柱よりも難しかったと考えられている。

こうして、エンタブラチュアは次第にアーチへと置き換えられていったのである。

この時代をもって正式にエンタブラチュアの生産が終了した。
壁を彫って芸術に
ローマ建築では、壁を作ってから外装としてオーダーを貼り付けていた。
ローマ建築編でパンテオンの話はしたが、

ドームという基礎構造を作ってから、正面にギリシア建築のオーダーをそっくりそのまま貼り付けた。
しかし中世建築では壁そのものを彫刻対象として扱う方向に進んだ。

まあ逆に言えば、エンタブラチュアを作る技術がないので高い技術のいらないお手軽な芸術表現が彫刻だったとも言える。
このように壁を削り、くり抜き、盛り上げることを分節(ぶんせつ)と呼ぶ。

たとえばこの彫刻は、鎖につながれた捕虜(あるいは奴隷)たちを表している可能性が高く、
と取れる。
参考書によると、「壁面分節の開始」と「アーケード支柱の円柱からピアへの転換」は無関係では無いと考えられている。

なぜならば、この転換によって身廊壁は床から天井までが連続した一体の壁となるからである。
と参考書には書いてあるがここを理解するのがまた難しい。
わたしが理解した範囲では、
スラっとしている円柱は細身で独立した「線」として空間を支えるため、床から天井までの連続性はあまり感じられない。一方、ピアは壁と一体化した「面」としてアーチを支えるため、壁面が床から天井まで連続し、身廊全体に強い一体感を生み出した
ということを言いたいのだろう。
それをなんとなくの図にしたのがこちらである。

別の解釈を思いついた方がおられたら是非ともコメントで教えて欲しい。
ロマネスク建築の特徴

歴史の話が続いたので、
「結局、ロマネスク建築の特徴って何なん?」
と思い始めた頃ではないだろうか。
安心してほしい。
ここからは実際の建物を見ながら、「これがロマネスク建築だ」と判断できるポイントを四つ紹介していく。
それがこちら。
- 重厚な石積みの外観
- トリフォリウム
- ヴォールト
- 小さい窓、暗い堂内
ロマネスク建築は一見すると地味な建築に見えるかもしれない。
しかし、その一つひとつの特徴には、すべて理由があるのである。
重厚な石積みの外観

ロマネスク建築の特徴の一つ目は重厚な石積みの外観である。
いかにもゴツい、頑丈そうな見た目が多い。

なぜ重厚な外観かと言うと「めちゃくちゃ重い天井を支えるため」。
逆に言えば重厚な外観にならざるを得なかったとも言える。
皆さん知らないかもしれないが、石って実はとんでもなく重い。
こないだも、石マニアの後輩に連れられて「どうしても家に持って帰りたい超カッコいい石がある」ということで、自宅から1時間ほど離れた川沿いにあるバカ重い石を運ぶようにお願いされ、二十分ほど石を抱えて岩場の道を汗だくで駐車場まで帰ったことがある。

家で重さを測ったところ、なんとたったの40kgだった。
40kgなんて小学校中高年くらいの重さなのに、石に形を変えただけで死ぬほど重かったのである。
見た目が重厚であるだけでなく重い天井を支える分、壁を厚くしなければならなかったので高く造れなかったとも言える。

初期のキリスト教教会(ロマネスク建築完成以前)では木造の露出小屋組とするのが普通だったが、

ロマネスク建築では石造天井を架ける試みが熱心に行われた。
この試みにより、教会をより「外界から隔離された建物」にしようとしたのである。

ロマネスク建築の基となった、初期キリスト教建築についてはこちらで紹介している。
トリフォリウム
ロマネスク建築の特徴の2つ目は「トリフォリウム」である。
トリフォリウムとは身廊に面した壁面にみられる小アーチ列のこと。

ゴシック建築ではこのトリフォリウムがアーケードとなって背後を壁内通路としているが、

ロマネスク建築では盲アーチか単純な開口のままである。

つまり「実用的には何の意味もない窪み」なのである。
これが光を取り入れるための窓なら、前記事で勉強した「クリヤストリー」になる。
また後で出てくるが、側廊の2階部分をトリビューンと呼び信徒が2階から典礼を見たりできるようになっている。
例えばこれ。

下から大アーケード、トリビューン、クリヤストリーの三層構成
当然、トリビューンの上にトリフォリウムがある場合は身廊立面は四層構成になるが、ロマネスク建築ではそんな構成は滅多に見られない。
トリビューンとトリフォリウムの違い

ここまでお読み頂いた方、きっとこう思ったに違いない。
「トリビューンとトリフォリウムの違いってなんや?」
と。
参考書には以下のような説明が載っている。
ChatGPTもなかった当時、両者の違いを理解するのにわたしは1週間以上かかった…。
結論から言えば、要するに「屋根裏とみるか通路とみるか」ということだった。
ではトリフォリウムとトリビューンの違いを「ピサ大聖堂」を用いて説明しよう。

まず、このピサ大聖堂は4階建てとみなす。
わかりやすいように2枚用意した。

もう一枚がこちら。

なんとなく4階建てだとわかって頂けただろうか。
さて、トリフォリウムの説明に出てきた「片流れ屋根」とは、片方に勾配が付いた屋根のことを指す。

実は現代の住宅にも片流れ屋根は数多く使われている。
余談だが、片流れ屋根は見た目もオシャレで太陽光パネルを載せるのにも非常に適している。
わたしの家の屋根も片流れにしたかったのだが、京都の景観条例で実現不可能だった。
さて、トリフォリウムとトリビューンの解説に戻ろう。
トリフォリウムは「片流れ屋根を架けた側廊の屋根裏」なのだから、先ほど定義した3階の側廊にあたる部分になる。

もう見た感じ通路にするには狭い、屋根裏だから。
(物置小屋くらいにはなるかもしれないが。)

なのでロマネスク建築でもゴシック建築でもトリフォリウムは「盲アーチか単純な開口のまま」という『なんの意味もない窪み』として存在するのである。
一方でトリビューンは「側廊を2階建てとしたときの階上廊」なのだから、先ほど定義した2階の側廊にあたる部分になる。

こちらは2階なので、当然通路にする空間がある。
2階だから。

ほら、2階が通路になっている。
これがトリビューンである。
何となくわかっただろうか?

重要なので再度言うが、要するに「屋根裏とみるか通路とみるか」という違いなのだ。
最後にもう一度確認しよう。
トリフォリウムは、片流れ屋根を架けた側廊の屋根裏なので、

これらの小アーチ列の背後には片流れ屋根が架かっており、通路にするスペースがない。
(屋根裏部屋としての物置くらいのスペースはあるかも)
しかしトリビューンの場合、側廊を2階建てとしたときの階上廊なので、

トリビューンの背後には片流れ屋根がなく人が通れる通路があり、恐らく上の写真の場合クリヤストリーとトリビューンの間くらいの位置に片流れ屋根が存在しているということだろう。
少なくとも、トリビューンの背後には片流れ屋根はないだろう。
ヴォールト
ロマネスク建築の特徴の三つ目は「ヴォールト」である。
最も単純でよく行われた石造天井は半円筒形のトンネル・ヴォールトで、特にフランス中部/南部からスペインにかけて多くみられる。

トンネル・ヴォールト
そしてトンネル・ヴォールトに一定間隔でアーチが走っているもの(横断アーチ)もある。

天井はトンネル・ヴォールトに横断アーチ
また、半円筒形を交差させてできる形状のヴォールト(交差ヴォールト)も用いられた。

下から見るとこんな感じである。

実は交差ヴォールトまではローマ建築時代から存在していたらしい。
(ここからはゴシック建築のお話なので理解できなくても良いのだが…)
そして12世紀初期(ゴシック建築時代)に、この交差ヴォールトの稜線にリブを付けた交差リブヴォールトが現れた。

リブ(rib)とは英語で「肋骨」のこと
このリブは見た目上の問題だけでなく、天井の重さを壁では無くリブが繋がる四隅の柱で支えることができるので、壁自身を高く薄くすることができ、そこにステンドグラスなどを飾ることができた(←完全にゴシック建築の話だが)

こうしてゴシック建築はロマネスク建築では実現できなかった天にそびえる高層建築物を造ることができたのである。
余談は以上。
小さい窓、暗い堂内
ロマネスク建築の特徴の四つ目は小さい窓と暗い堂内である。

もう何度も言っているが、基本的にロマネスク建築は石造天井を取り入れたことによってそれを支えるために壁を分厚くせざるを得ず、強度的な問題で大きな穴を開けることができなかったのである。
つまり、窓が小さいので堂内にあまり光を取り入れることができない。

強度の問題で窓が小さい
先述した通り、高い塔を作ることもできなかった。
高くすればするほど、使わなければならない石材も多く、全体的な重量がトンデモナイことになり建物自身が自重で崩壊する危険性もあったのである。

これで長かったロマネスク建築編は終了だ。
続いて、ゴシック建築に移りたいと思う。
おわりに
ということで、古代メソポタミア建築から始まり、古代エジプト建築、ギリシャ建築、ローマ建築、初期キリスト教建築、ビザンティン建築を経て、ようやくロマネスク建築までたどり着いた。
長かった……。
「え、まだ続くの?」
と思われた方もいるかもしれない。
ローマ建築からロマネスク建築が成立するまでには、およそ600年もの歳月が流れている。その間、キリスト教が公認されたことで、ヨーロッパ各地には数え切れないほどの教会や修道院が建設された。
そのため、一口にロマネスク建築と言っても、イタリア、フランス、ドイツ、スペインなど、それぞれの地域によって特徴は大きく異なる。
当然、「ある日突然、画期的な建築様式としてロマネスク建築が完成した」というわけでもない。
すべては、長い年月をかけて少しずつ形づくられていったのである。
しかし、「技術的な制約から高く造ることができなかった」「石造天井を支えるために大きな窓を開けられなかった」といった特徴は、多くのロマネスク建築に共通して見られる。
ヨーロッパを旅する際は、ぜひそのような点にも注目しながら教会を見学していただきたい。
さて、次はいよいよゴシック建築である。







