
「ビザンティン建築って何?」
そう思ったあなたは正常だ。
わたしも建築を勉強する前は、「ビザンティン」という言葉を聞いても、何となく強そうなポケモンの名前くらいにしか思っていなかった。
しかし、ヨーロッパを旅するなら、この建築様式は避けては通れない。
むしろ、ビザンティン建築を知るだけで、旅の面白さは一段階レベルアップする。
今回は、西洋建築史の中でも重要な「ビザンティン建築」について、初心者にも分かるように解説していく。
東西ローマの分裂と東方教会

ビザンティン建築は、ローマ建築がそのまま発展したものではない。
その背景には、ローマ帝国の東西分裂と、キリスト教世界における東方教会の成立という大きな歴史的転換があった。
建築は、その時代の政治や宗教を映し出す鏡である。
まずは、ビザンティン建築が誕生した時代背景を見ていこう。
東西ローマの分裂とビザンティン建築

4世紀当時、ローマ帝国はヨーロッパから中東・北アフリカにまで及ぶ巨大帝国となっていた。しかし、あまりにも領土が広大になったため、首都ローマから帝国全土を統治することは次第に困難になっていた。
そこで西暦330年5月11日、コンスタンティヌス帝は首都をローマからビュザンティオン(現在のイスタンブール)へ移し、「コンスタンティノープル」と改名した。

新首都の建設に伴い、宮殿や教会をはじめとする壮大な建築事業が展開される。そして、この新しい都で独自に発展した建築様式が、後にビザンティン建築と呼ばれるようになるのである。
こうして西暦395年、ローマ帝国は東西に分裂する。
西ローマ帝国は分裂後すぐに滅亡したが、その跡地から後のロマネスク建築やゴシック建築などが生まれた。
この東ローマ帝国に広がったキリスト教は、ローマを中心とした西ヨーロッパのローマン・カトリックとは異なり、現在のギリシア正教とかロシア正教とか呼ばれる東方正教会を指す。
キリスト教の宗派カトリックやプロテスタント、東方正教会の違いに関する記事はこちら。
東方教会の特徴
この東方教会では、神の表現についてきわめて厳格であり、天国の階層序列がハッキリ決まっている。
例えば、
- 最上位はもちろんイエス
- 次にマリア(イエスのママ)
- 次いで大天使ミカエルとガブリエル(神の言葉を伝える天使)
- 福音史家(イエスの言行録「福音書」の著者たち)
- 使徒たち(イエス・キリストの12人の高弟)
- 旧約の預言者(本書には「旧訳の予言者」と書かれているが、恐らく誤字)
- 聖者(殉教者や偉大な使徒)
- 初期キリスト教時代の教父(カトリック教会に公認された聖なる神学者)
の順に定められていった。
(イエス=神の子=神)
東方教会の重要な要素

参考書からの一節を抜粋しよう。
また、初期キリスト教のバシリカ式教会堂のアプス上の半ドームにキリスト教の勝利と栄光を図像学的表現としてきた伝統をさらに押し進めて、神の座としてのドームの象徴的意味がますます強く意識されることとなっていき、東方教会の教会堂ではドームがより重要な要素となっていきました。
なんとも回りくどい表現だが、一言で要約するなら「ビザンティン建築とは、ドームの建築と言っても過言ではない」ということ。
「え、アプス?バシリカ式?」と思った方、前回の初期キリスト教建築の記事読んでないでしょ?
まずはそちらを読んでから戻ってきて欲しい。
まあ一応アプス上の半ドームについて説明しておこう。
アプスとは教会堂の奥にある聖職者の専用空間のことを指す。

このアプスの上部には大抵半ドームがある。

つまり、要約すると東方教会では西ヨーロッパのカトリック教会よりもドームが重要になったということである。
広間の方向性とドーム垂直性
参考書「西洋建築様式史」には以下のような説明がある。
アプスへ向かう典礼行進が見栄えするような細長い広間の方向性と神の座を象徴するドームの垂直性をうまく組み合わせることがビザンティン建築の課題につながっていきます。
皆さん、意味わかるだろうか?
わたしはこの文の意味を理解するのに時間がかかった。
初期キリスト教建築編でも紹介したが、教会堂の平面形式を以下のように仮定すると、

赤色矢印は信者が入り口から奥にあるアプスまで歩く方向性を示し、青色矢印はアプス上部の半ドームを見上げる際の垂直性になる。

この典礼行進の方向性とドームの垂直性をどうするかという課題が残る。
つまり!
初期キリスト教以来の伝統的バシリカ式プランと神の座を象徴するドームの結合という大きな課題を抱えて、これから様々な構造的実験を繰り返していくのである。
ここまでOKだろうか?
ビザンティン建築の課題

ビザンティン建築は、巨大なドームを建物の中心に据えることを目指した。
しかし、そこには一つの大きな問題があった。
「円形のドームを、四角い建物の上にどう載せるか」である。
この難題を解決したことこそが、ビザンティン建築最大の功績と言ってよい。
ビザンティン建築の課題

ではビザンティン建築の課題とはなにか。
参考書「西洋建築様式史」の本文をそのまま載せるとこうなる。
細長のプランの上にドームをかけるということは、ドームを立ち上げるための円形プランの基礎を矩形プランの上にどう築くかという問題に帰結する。
・・・(´・ω・`)?
なにが言いたいのか、全くわからない。
これに関して本書には、重要な用語として
- スキンチ
- トロンプ
- ペンデンティブ
が紹介されている。
では、小学生でもわかるくらい簡単に説明していこう!
実は、円柱の上にドームを載せるだけなら、それほど難しい話ではない。

丸いものの上に丸いものを載せるのだから、まあ何とかなる。
しかし、問題はここからである。
四角い建物の上に丸いドームを載せろ。と言われたらどうだろうか。
……急に難易度が跳ね上がる。

試しに、段ボール箱の上へボウルを載せるところを想像してほしい。

載せられないことはないが、角が余るし、何とも座りが悪い。
実は、ビザンティン建築家たちも全く同じ問題に頭を抱えていたのである。それが先ほど登場した、
ドームを立ち上げるための円形プランの基礎を矩形プランの上にどう築くかという問題
なのである。
つまりこの難解そうな文章は、一言で言えば、
四角形(屋根)の上に円形(ドーム)を載せるのは難しい!
ということである。
そして、この難題を解決するために生み出されたのが、
- スキンチ
- トロンプ
- ペンデンティブ
という3つの建築技術である。
つまり、この3つはすべて、「四角を丸に変えるためのアイデア」というわけである。
スキンチ
スキンチ(別名「火打ち梁」)とは、正方形平面の上に円形のドームを載せる技術で、四角形の上面を八角形ないしはより円に近い多角形として接続する方法である。
小学生にも分かるように一言で言えば、「四角を少しずつ丸に変えていく技術」である。

このスキンチは木組みで家などを建てる際にも使われる技術で、建物の水平方向のひずみを抑える役割がある。

まぁ、図を見ると一発で分かる。
まず、正方形の四隅にスキンチを架ける。

すると、四角形だった平面は正八角形へと変わる。

ではこの正八角形にさらにもう一度スキンチを架けるとどうなるだろうか?

ななななんと!!!
なんと正十六角形になり、より円に近付いたことになる!!
つまり、
四角形 → 八角形 → 十六角形 → 三十二角形 → …
というように、角を増やしていくことで、少しずつ円に近づいていくのである。
そして、十分に円へ近づいたところでドームを載せる。

実にシンプルな発想だ。
参考書の著者曰く、この方法は汎用性があまり高くないらしい。
この方法にも弱点があったのだ、参考書には次のように書かれている。
このスキンチの方法は、長くて大きな石材が採れない地方では用いることはできない。
大きな石が近くで採掘できず、煉瓦や小割石でしか建築を建てられない地方では、このスキンチをアーチに代えることでそれを解決した。
このスキンチ・アーチの方法をさらに押し進めて扇状にアーチを重ねて隅の部分を処理したのがトロンプである。
はい、意味が分からない。
建築史の専門書は、ときどき日本語なのに読めない。
要するに、「大きな石が手に入らない地域では、この方法は使えなかった」ということである。
そこで考え出された改良版が、次に紹介するトロンプなのである。
トロンプ
スキンチの発展形としてトロンプという技術がある。
……とはいえ、正直に言うとそんなに重要ではない。
ペンデンティブほど頻繁に出てくる技術ではないので、「こんなのもあったんだな」くらいで十分である。
一応説明すると、問題はここである。
スキンチを架けると、四角形は八角形へと変わる。
そしてスキンチを架けた後の、

しかし、よく見ると四隅に三角形の空間が残ってしまう。

つまり、「四角を丸へ変えることには成功した。でも、何となく無理やり感がある。」ということである。
この四隅の無駄な部分のせいで、地上からドームの頂点までのスムースな流動感が中断されてしまう。
早い話「上に載っけただけですやん」ってことである。
これを克服したのがトロンプである。

スキンチの代わりにアーチを重ねることで、壁からドームへより自然につながるよう工夫したのである。

確かにスキンチよりは滑らかになっている。
……なってはいる。
しかし、個人的な感想を言わせてもらうと、
「努力は認める。でも、そんなにスムーズには繋がってないよ?」
という印象である。
そして、この問題をほぼ完璧に解決したのが、次に紹介するペンデンティブである。
ペンデンティブ
さて、いよいよビザンティン建築最大の発明、ペンデンティブである。
……と言っても、写真をいきなり見てもおそらく意味が分からない。
なので、まずは頭の中で想像してみてほしい。
この参考書、基本的には真面目一辺倒なのに、このペンデンティブの説明だけ急に饅頭が出てきて思わず笑ってしまった。
では、参考書通りに饅頭を使って説明しよう。
- 正方形の壁体の上端に外接する半球形の饅頭をまず想定し4つの壁からはみ出ている部分を包丁で垂直に切り落とします。
- 切断された切り口は半円形となり、上に載っている半球の荷重が四隅に集中し、正方形の四つ角にそのまま力を伝えることができます。
- 次に半円形の切り口の頂部に接するように饅頭を水平に切ると、その切り口は円になり、その円を基礎としたもう一つ半球形の饅頭を載せて、この方法は完成する。
- 二段に積み上げられたドームの下の方は四隅に球形三角形だけが結局残るわけで、この部分が二重のドームの全ての荷重を受けることになり、この球形三角形をペンデンティブと呼んでいる。
……。
やっぱり文章だけでは分かりにくい。
百聞は一見にしかず。
が、わたしの未熟なパワポ技術では上手にイラストが描けなかったので、今回はミカオ建築館様のブログから図を引用させて頂いた。

(出典:Q ペンデンティブとは?)
このペンデンティブの方法によって、荷重は四隅に集中され、それ以外の部分は構造的に解放されるので大きな開口部がとれるようになり、ドームの壮大な空間の中に明るい光を採り入れることができるようになったのである。

繰り返しになるが、本来デカいドームを載せるとなると、それを支える壁も分厚くする必要があるし、強度の問題から大きな開口部を設けることもできない。だが、このペンデンティブ構造では荷重が四隅へ集中するため、四隅さえガッチリと補強してしまえば、それ以外の壁には大きな窓やアーチを設けることができる。
これによって、巨大なドームを支えながらも、教会内部には燦々と光が降り注ぐ、それまでの石造建築では実現できなかった壮大な空間が実現したのである。
これこそが、ビザンティン建築最大の革命だった。
巨大なドームを載せながら、明るく開放的な内部空間を実現できるようになったのである。
そして、このペンデンティブを武器に、ドーム建築を極限まで発展させたのがビザンティン建築なのである。
確かに……これはすごい。
ビザンティン建築の奇跡「アヤ・ソフィア」

ここまで、ビザンティン建築がドームを何よりも重視した理由や、そのために生み出されたスキンチ、トロンプ、ペンデンティブといった技術を見てきた。
では、それらの技術は実際にどのような建築で使われたのだろうか。
その答えが、1500年前に建てられビザンティン建築の最高傑作にして「建築史上の奇跡」と称されるアヤ・ソフィアである。
アヤ・ソフィア
初めに言っておくと、真面目一徹おちゃらけ要素0の本参考書の著者、アヤ・ソフィアが大好きなようで褒めまくっている。
では、これからビザンティン建築の奇跡と呼ばれる「アヤ・ソフィア」について紹介していこう。

537年、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)で献堂されたこの大聖堂は、約1500年経った現在でも世界中の建築家を魅了し続けている、人類が創り上げた奇跡的傑作である。(と著者は言っている)

ユスティニアヌス帝の命により、この建築史上最大のモニュメントの設計を任されたのは、「アンテミウス」と「イシドロス」という二人の建築家だった。
(いや誰や!!?)
この2人の明晰な頭脳によって計算された計画に従って100人の親方が現場を指揮し、その下に10,000人の職人が働いたと言われ、532年に起工し、537年には完成するという奇跡的な早さで完成した。

ちなみにわたしも、2025年2月初旬にトルコのイスタンブールを訪れ、25€(約4500円)という大金を払って入場し、その壮大さに度肝を抜かれている。ただ、入場料がバカ高かったので次からは遠慮させて頂く。
余談だが、アヤ・ソフィアのすぐ目の前にはブルーモスクという、アヤ・ソフィア並みの荘厳な建物がある。

しかも入場料は無料、なのにアヤ・ソフィアと遜色ないほど壮大で美しい。

次回イスタンブールに行く際は、アヤ・ソフィアには入場せずに無料のブルーモスクのみにしようと心に決めている。

さて、少し話が逸れてしまったがアヤ・ソフィアのプランの解説に戻ろう。

アヤ・ソフィアは長さ77m、幅71.2mのほぼ正方形プランの上に直径31m、高さ55mの大ドームを戴き、

ビザンティン建築の課題であったバシリカ式プランとドームの結合を完全に成功させたのである!!!
と、著者は非常に興奮した様子で本書で語っている。
この大ドームを支えているのは、身廊上で東と西から寄り添うように脇を固めている2つの半ドームであり、

ペンデンティブの技術とこれらの半ドームによる合理的な構造処理が、アヤ・ソフィアの流動感あふれる室内空間を作り上げたのである。(と著者は語っている)

それは、大ドームからペンデンティブへ、そしてペンデンティブから半ドームにいたる流れが、途中で中断されることなくスムーズに処理されているからに他ならない。(と著者は語っている)

そしてこの壮大なスケールの大ドームの足元には帯のようなクリヤストリーの窓が穿(うが)たれ、あたかもドームとペンデンティブ部分の間が全く繋がりをもたず、大ドームが天上から神の手によって吊り下げられているかのような錯覚を起こさせるのである。(と著者は語っている)

また、このクリヤストリーのスリットから差し込む光は、この世のものとは思えない感動を呼び起こしてくれるに違いない。(と著者は語っている)
わたしはアヤ・ソフィアの内部をこの目で見てきたが、入場料の高さにショックを受けてか、審美眼が乏しいからか、この著者のような感動はしなかった。
単に「ほえー、スゴいな〜」という、素人同然の感想しか抱かなかった。
結論、アヤ・ソフィアの凄さを知るにはもう少し勉強が必要だった。
色大理石やガラス・モザイクによる装飾性
以上のような構造的魅力だけでなく、ビザンティン建築では色大理石やガラス・モザイクによる装飾性も忘れてはならない。
アヤ・ソフィアは、ユスティニアヌス帝の命令で東ローマ帝国の領地から集められた珍しい色大理石やガラス・モザイクで美しく飾られていた。


陽光が高窓から差し込むたびに金色のモザイクが輝き、建物全体が神秘的な光に包まれる。
青緑色を中心とした下層の大理石と金地の強い色彩が鮮やかな上層の壁面とドームのガラス・モザイクが織りなす色彩の動きも、このアヤ・ソフィアの魅力を生み出している。(と著者は語っている)

アヤ・ソフィアとハギア・ソフィア
アヤ・ソフィアは現在、一階はイスラム教徒専用の礼拝堂、二階は観光客用の博物館になっているが、元々はキリスト教の大聖堂として6世紀にビザンツ帝国で建てられたもので、本来の名称は「ハギア・ソフィア」と呼ばれていた。
しかし1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープル(現イスタンブール)を征服すると、キリスト教の大聖堂はイスラム教のモスクに改修され、4基のミナレットが加えられて「アヤ・ソフィア」と改名された。
「ハギア・ソフィア」はギリシャ語名、「アヤ・ソフィア」はトルコ語名であり、どちらも「聖なる叡智(Holy Wisdom)」という意味を持つ。

結論、「ハギア・ソフィア」と「アヤ・ソフィア」は同じ建物である。
ラヴェンナのサン・ヴィターレ

アヤ・ソフィアがビザンティン建築の最高傑作だとすれば、サン・ヴィターレ(526頃-547)はその特徴を凝縮した代表作である。
規模こそアヤ・ソフィアには及ばないものの、集中式プランやドーム、モザイク装飾など、ビザンティン建築の魅力が余すことなく詰め込まれている。
では、その特徴を見ていこう。


参考書「西洋建築様式史」にはサラっと書かれていたので、その内容をそのまま掲載する。
この建物は、八角堂形式の集中式プランを採り、中心には直径約17m、高さ30mのドームが架けられ、八角形の各辺は横断アーチで側廊に連結し、下層部分には奥行きのあるニッチが側廊へ向かって張り出すという変則的なプランになっています。
何を言っているのか、さっぱり分からない。
わたしも最初に読んだときは完全にフリーズしたが、苦悩の末にようやく理解することができた。
上の文をイラストにするとこうなる。

緑色で示した部分がニッチである。
文章だけでは難しく感じるが、要するに壁をえぐってできた「くぼみ」が八角形の各辺に張り出しているということだ。
あの文章からこの平面図に辿り着くのに1週間以上かかっている。
まずはニッチについて説明しよう。

ニッチとは、四角や丸にくり抜かれた壁のくぼみ、花瓶や雑貨などを置くスペースでよく「ニッチ棚」とか呼ばれるアレだ。
別にニッチは棚である必要はなく、要は「窪んでいる/えぐられている」が重要なのである。
下の写真を見てニッチを探して欲しい。

わかるだろうか?
先ほど出した平面形式と見比べたらわかってもらえるはずだ。

もう少しわかりやすい写真がこちら。

ではわたし特製のGIF画像で説明しよう。

これなら「ニッチ」が何なのか、一目で理解できるだろう。
実は東京駅のホールにもサン・ヴィターレと同様に八角堂形式の集中式プランが採用されている。
東京なんて一切興味がない生まれも育ちも滋賀県のわたしだったが、友人の結婚式のために上京した際に唯一驚いたのがこの八角堂形式のプランだった。

いや、サン・ヴィターレか‼︎バシッ
さすがに声に出してツッコんだわけではないが、「八角堂形式でおもしろいな~」としばし眺めていた。
このサン・ヴィターレの壁と天井も大理石とガラス・モザイクの華麗な色彩で覆われ、幻想的な室内を見せている。

ビザンティン建築の伝播

ビザンティン建築の影響は、東ローマ帝国だけに留まらなかった。
巨大なドームやペンデンティブ、きらびやかなモザイク装飾は周辺諸国へと広まり、その後の建築史にも大きな足跡を残していく。
ここからは、ビザンティン建築が世界へどのように広がっていったのかを見ていこう。
ギリシャ十字とラテン十字

以下、「西洋建築様式史」より抜粋した。
ユスティニアヌス帝によるビザンティン前期の教会堂に続いて、9世紀のバシレイオス1世によるギリシア十字形プランの新しいタイプの教会堂が建てられる時代がやってきます。
中央のドームを支えるためにギリシア十字の腕の部分にもドームを架けて合理的に構造処理するものです。
え、ギリシア十字?
と思った方、大丈夫。これから説明する。
ギリシア十字とは難しく考えずに、四辺が同じ長さの十字のことを指す。

我々が良く知る「十字架」の形はラテン十字と呼ばれている。
ドームの架け方を追求したビザンティン建築だったが、「ドーム載せるのってギリシャ十字形の方が良くない?」となり、9世紀以降はギリシャ十字形のビザンティン建築が隆盛する時代が訪れた。
このギリシャ十字形のビザンティン建築の代表例が、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂である。
わたしは数年前にベネツィアに行ってきたが、当時は西洋建築なんて1mmも興味なくてサン・マルコ大聖堂には一瞥もせずに、適当に運河の写真撮ってフィンランドの首都ヘルシンキに向かった思い出がある。


さようなら、水の都。
またいつか会おう。
2025年2月に再度ベネチアを訪れ、「今度こそサン・マルコ大聖堂を」と意気込んでいたのだが、終日とんでもない土砂降りに遭ってついに写真を撮ることは叶わなかった。
運が無さすぎる、運河はあるのに。
以上、お粗末さまでした。
サン・マルコ大聖堂

参考書の説明をそっくりそのまま載せよう。
ヴェネツィアのある商人がアレキサンドリアから盗んできた聖マルコの遺体を奉納するために、832年に建設された教会堂の基礎と壁体の一部を再利用して建てたもので、ユスティニアヌス帝がコンスタンティノープルに建てさせた聖使徒教会堂を原型として、ギリシアの建築家が設計したと言われている。
うむ、例の如く意味不明である。
まず初めに、このサン・マルコ大聖堂の平面形式を 確認してみよう。

こんな感じだ。ギリシア十字は見つかっただろうか?
著者の説明はもう少し続く。
ギリシア十字形のプランのそれぞれの正方形柱間に直径13m、高さ30mの大ドームを5個架けたもので、アヤ・ソフィアのような流れるような空間性はもはや追及されていない。
わからない人は下のGIF画像を見て欲しい。

ギリシア十字形プランと大ドームを記している。
サン・マルコ大聖堂の内部はこんな感じだ。
ドーム五つがどう載っているかに注目して欲しい。


アヤ・ソフィアのような流れるような空間性はもはや追及されていない。
流れるような空間性・・・流れるような・・・?
別にアヤ・ソフィアと大きく違うとは思えないが。
教養のないわたしにはあまり理解できなかったが、まあアヤ・ソフィアはそれだけスゴイってことだろう(適当

以上の9世紀から12世紀のビザンティン中期の時代が過ぎると、東ローマ帝国はイスラムの侵略と十字軍の海上封鎖によって衰退し、そして1451年のトルコ人によるコンスタンティノープル陥落でついに滅亡する。
しかし、ギリシア正教はロシアに広まり、ロシアを本拠地として後期ビザンティンの教会堂が開花することになる。
だがそれについては勉強していないので記事は書いていない。
シャルルマーニュとカロリング朝建築

ビザンティン建築が東ローマ帝国で独自の発展を遂げていた頃、西ヨーロッパでは全く異なる動きが起こっていた。
西ローマ帝国の滅亡後、一時は混乱の時代を迎えたヨーロッパだったが、一人の王の登場によって再び統一への道を歩み始める。
その人物こそが、シャルルマーニュ(カール大帝)である。
カール大帝とは
6世紀中期から約半世紀にわたる建築活動の停滞が終わった後に、新しい時代の幕開けを準備するためにこの世に生まれてきた偉大な支配者が現れる。

それがシャルルマーニュ(=カール大帝)である。
768年に国王、800年から814年にかけて皇帝となり、現在のフランス・ドイツ・イタリアにまたがる大帝国を建設した。
これ以降10世紀まで続く王朝をカロリング帝国と呼び、この建築的に不毛だった時代において唯一の注目すべき建築を残した貴重な王朝だった。
この時代を代表する建築としてはアーヘンの王室礼拝堂がある。
アーヘンの王室礼拝堂

この建築はラヴェンナのサン・ヴィターレを模範として建設された八角堂だったが、模範の作品に比べて、その軽快さと優雅さが失われ、薄暗く重厚なものとなった。

うむ、これは著者の言いたいことが少しわかる。
サン・ヴィターレと比べると確かにすごく重厚な感じがする。
…。
うん、以上。
もう一つバシリカ式の教会堂として建てられたものにサン・リキエ修道院付属聖堂がある。
サン・リキエ修道院付属聖堂

カール大帝の子アンギルベルトが院長となって建設したものだが、残念ながら現存していない。
17世紀の版画から判断すると、東西に袖廊が張り出し、その交差部にそれぞれ塔が立つ、二重内陣式・多塔形式の教会堂だったようだ。
この「二重内陣式」と「多塔形式」を受け継いだのがドイツ・ロマネスク建築である。
ドイツや北フランスに普及するロマネスク教会堂のひとつのタイプを予言するものであり、建築史の上で貴重な史料となっている。(と著者は語っている)
おわりに
ふう。
ようやく長い長いビザンティン建築編が終わった。
ここまで読んでくださった方、本当にお疲れさまでした。
ビザンティン建築では、スキンチ、トロンプ、ペンデンティブなど聞き慣れない専門用語が数多く登場した。しかし、最も重要なのは、
「四角い建物の上に、いかに巨大なドームを載せるか。」
という課題だった。そして、その難題を克服したことで、アヤ・ソフィアのような壮大で光あふれる空間が実現したのである。
さて、次はいよいよ多くの方が一度は耳にしたことのあるロマネスク建築へと進む。
この頃から西ヨーロッパは再び文化的な統一性を取り戻し、後のゴシック建築やルネサンス建築へとつながる大きな流れが始まる。
ここから先は、西洋建築史がさらに面白くなっていく。
それでは、次回のロマネスク建築編でお会いしよう。


